◆アイデアあふれる年賀状を、職人に発注し制作・交換していた趣味人たち
京都の郷土史家が発案して全国に広がる
大正末期から昭和の戦前にかけて、年賀状愛好家による交換会がいくつも開かれています。発案者は京都の郷土史家・田中緑紅(りょっこう)。郷土玩具や民俗学の先駆的研究者として高い評価を受ける人物です。1925(大正15)年に京都で開かれた交換会を皮切りに、大阪、名古屋、東京へと広がりをみせ、100人ほどの趣味人が集まる会へと成長しました。
彼らの多くは、考案したアイデアを専門の職人に依頼して年賀状の形にしていたといいます。イラストレーターはもちろん、木版画の彫師や摺師(刷師)に発注し、こだわり満載の楽しいはがきに仕上げて交換していました。昭和に入ってからは年賀状だけでなく絵葉書や暑中見舞いの交換会も開かれていたようです。
年賀状交換会の発案者 田中緑紅 たなか・りょっこう(1891-1969)
年賀状交換会の発案者 田中緑紅 たなか・りょっこう
(1891-1969)
京都生まれ。大正から昭和に郷土史家、民俗学の先駆者として活躍。京都で緑紅花園という園芸店を開き、そこで知り合った明石国助(のちに染色工芸研究家として活動)とともに、郷土史や民俗学を研究。1916(大正6)年、緑紅花園内に「郷土趣味社」を創立し、大正年間に機関誌「郷土趣味」を発行。戦後は「京を語る会」などを主宰した。
田中緑紅の年賀状 1928(昭和3)年
辰年にちなみ、浦島太郎が竜宮城で受け取る玉手箱と釣竿の意匠
1939(昭和41)年
◆自らの手で創る、こだわり抜いた年賀状で切磋琢磨していた芸術家たち
一流の版画家が参加し、戦時中も続いた「榛の会(はんのかい)」
こうした好事家の交換会とは別に、アーティストが会員となり、自らが芸術作品として創作した年賀状を交換する会も存在しました。童画や版画、装丁などで活躍した武井武雄が芸術家に呼びかけ、1935(昭和10)年のお正月に始まった「榛の会」(最初の2年は「版交の会」)は、戦時中も途絶えることなく22年間続いています。棟方志功や恩地孝四郎、川上澄生、関野準一郎、平塚運一といった名だたる洋画家・版画家をはじめ、写真家や童画家も参加。会員は50人に制限され、厳しい審査を経て入会を果たしても、提出した年賀状が他のメンバーから低い評価を受けると除名されるというルールが存在したといいます。毎回、会員の作品を納めるアルバムも意匠を凝らした装丁で創られ、50部限定で配布されていました。こうした「榛の会」での活動に刺激を受けて、さらに実力を伸ばした版画家も少なくなかったようです。
武井武雄 たけい・たけお(1894‐1983)
武井武雄 たけい・たけお
(1894‐1983)
長野生まれ。子どものための絵を「童画」と名づけ、童話の添え物ではなく芸術の域に高めた童画家、版画家、装丁家。本の素材・絵・文字・装幀・函、印刷方法のすべてが一体の芸術作品であるという視点から、“本の宝石”と称えられる刊本作品もライフワークとして制作した。1934年に芸術家の知己に呼びかけ「榛の会」を設立し、第20回まで主宰を務めている。
武井武雄の年賀状
1935(昭和10)年 表面
1935(昭和10)年 裏面
1943(昭和18)年
1945(昭和20)年
板祐生 いた・ゆうせい(1889‐1956)
板祐生 いた・ゆうせい
(1889‐1956)
鳥取生まれ。山村の学校教師として生涯を送りながら、学校の副教材の印刷に使われていたガリ版(謄写版)によって、芸術的な多色刷り孔版画を制作。絵葉書や古銭、郷土玩具やポスター、お菓子のラベルなどのコレクターとしても知られる。ガリ版印刷で私家版の郷土玩具雑誌なども発行し、各地の文人と親交を結んだ。「榛の会」には第2回からのべ19回にわたって参加。
板祐生 いた・ゆうせいの年賀状
1942(昭和17)年
1947(昭和22)年
1944(昭和19)年
川上澄生 かわかみ・すみお(1895‐1972)
川上澄生 かわかみ・すみお
(1895‐1972)
神奈川生まれ。宇都宮で高校教師をしながら創作活動を行った詩人、版画家。西洋文化と日本的モチーフを融合させた異国趣味あふれる作風で、特に南蛮のキリシタン文化や文明開化をテーマとした戦後の版画作品で知られている。叙情的な詩を盛り込んだ木版画や女性への想いを込めた作品、風景や静物版画も残した。
1937(昭和12)年
1943(昭和18)年
川上澄生の年賀状
1935(昭和10)年
恩地孝四郎 おんち・こうしろう(1891‐1955)
恩地孝四郎 おんち・こうしろう
(1891‐1955)
東京生まれ。竹久夢二との出会いから画家を志し、1914年に仲間と詩と版画の雑誌『月映(つくはえ)』を刊行。萩原朔太郎の詩集の装幀と挿画、『北原白秋全集』の装幀で装本家の地位を確立。繊細でシャープな創作版画作品は、日本における抽象表現の先駆けとされる。自由な創作姿勢で時代に呼応したさまざまな版表現を追求し、日本版画会のリーダーとして大きな足跡を残した。優れた自作装画本の刊行でも高く評価されている。
恩地孝四郎の年賀状
1935(昭和10)年
1937(昭和12)年
1945(昭和20)年
棟方志功 むなかた・しこう(1903‐1975)
棟方志功 むなかた・しこう
(1903‐1975)
青森生まれ。ゴッホの絵に感銘を受けて画家を志し、油絵を独学。版画家・平塚運一の教えを受けて以降、木版画を制作。国画会会員として活躍すると同時に、民芸運動を創始した柳宗悦、陶芸家の河井寛次郎らと交流。1930年のサンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞、翌1931年のヴェネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞。自身は版画を板画と呼んでいた。日本画の大作も多く残している。
関野準一郎 せきの・じゅんいちろう(1914‐1988)
関野準一郎 せきの・じゅんいちろう
(1914‐1988)
青森生まれ。中学時代から版画誌を発行し、18歳で日本版画協会展に入選。25歳で上京した後は恩地孝四郎に師事し、「一木会」主要メンバーとして活躍。木版画のほか銅版画、石版画などさまざまな技法に精通し、多彩な題材の版画を60年近くにわたって制作。日本や世界各地の風景、人物を描いた作品で親しまれている。「榛の会」を武井武雄から引き継ぎ、第21回・22回の主宰を務めた。
1〜30件 / 全2601件
◆趣味人が交換会のために発注・制作し、交わした年賀状
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