明治17年の年賀状には、まだ干支の動物の絵はありません。
明治29年もまだ官製葉書のみの時代で、日清戦勝を受けて軍国デザインの年賀状が見られます。
明治41年の年賀状では、30年代から続く水彩画ブームの影響を受けて、水彩画による肉筆の年賀状も多く、また西暦年号をモチーフとした
ものも多く見受けられます。
大正9年の年賀状には、市販の木版印刷のが多く見られ、干支の猿のリアルな墨絵や擬人化された猿の年賀状など面白いものが有ります。
昭和7年は、昭和戦前の年賀状ブームの始まりとでも言えそうな年で、さまざまな印刷方法で多くの年賀葉書が作られています。
子どもの年賀状も優れたものが作られ始めます。
◆明治17年(1884)の年賀状
差出日は1月2日が多い。
この頃、元旦配達はなかった。大阪の旅館の年賀状に、商標らしき絵が入る。
沼津の第五十四国立銀行
より岐阜高須の第七十六
国立銀行あて。
◆明治29年(1896)の年賀状
恭賀新年、恭賀新禧が多い。軍国関係のデザインが派手になっている。
①は近衛歩兵や第三連隊、②は仙台の歩兵第四連隊の人が出している。
③は謹賀新禧の四文字を頭にすえて挨拶の文章をつなぎ、四行の文字を同数にまとめているところが面白い。「東海新聞社ニテ」とある。
④は京都市同志社、新島公義宛て
①
②
③
④
◆明治41年(1908)の年賀状
美しい年賀状が数多く販売され、交換された時代である。
国産の西暦年号入りの葉書もたくさんの種類が販売されている。
年号を干支の申で表現した物や、申酉戌亥の四つの干支を年号内に取り込んだものもあり、西暦年号花盛りの年でもあった。
私製葉書の干支の一段目、右の端のデザインを見ると、御幣を持った猿が羊を追い出そうとしている。
干支の交代という年賀デザインの一つのモチーフがこの頃から始まっている。
年賀状デザインの中で干支の割合が少しづつ増えてくる年である。
●官製葉書
干支
会社・商店
その他
●私製葉書
輸入葉書または海外からの年賀状
干支とコロタイプ印刷
桃太郎の猿
西暦年号入り
勅題「社頭松」
干支
軍国デザイン
軍国デザイン
会社・商店
◆大正9年(1920)の年賀状
大正9年の年賀状には意外と木版のものが多い。
趣味人による木版年賀状の交換会が始まるのが大正11年なので、この頃からすでにその予兆のようなものが有ったのかもしれない。
葉書ではないが、新年に交換するための木版の刷り物も作られていたようである。
子ども用の年賀状は大正の初期にはたくさん作られていたが、この頃は少し下火になっていたようだ。
大正期の子どもの年賀状に限ってだが、葉書の短辺が通常の9センチより短い葉書もよく見かける。
木版刷りの年賀状
勅題「田家早梅」
干支
子どもの年賀状
会社・商店
◆昭和7年(1932)の年賀状
木版印刷と合わせて孔版印刷による市販の年賀状が増えてきている。
子どもの年賀状はこの年を起点として、質のいい楽しい葉書が多く作られるようになる。
京都の田中本店や山口青旭堂など京都の絵葉書出版社の多くが子ども用の年賀葉書を作るようになる。
子どもの年賀状の最初から6点は山口青旭堂製。次の4点は福井朝日堂(京都)製。
この年の年賀状には、申年にもかかわらず酉のデザインがたくさん見られる。
これはこの年の勅題が「暁鶏声」だったからで、年賀状の蒐集家を悩ませている。
趣味人による交換会の年賀状
木版・孔版による年賀状
西暦年号入り
勅題「暁鶏声」
干支
子どもの年賀状
会社・商店の年賀状