1868(慶応4)年は、江戸時代の最後の年であり、日本に郵便制度が作られる前でした。
明治4年に近代郵便制度がスタートし明治6年には官製葉書が発行されます。
葉書が出来て最初の辰年は明治13年です。
ここから辰年の年賀状の歴史は始まっていますが、この年と次の明治25年までは年賀状の交換は一部の人に限られていました。
次の明治37年になると私製葉書の登場で色刷りの年賀状も見られるようになります。
大正から昭和に入ると年賀状の交換は子どもたちの間にも広がり、かわいい年賀葉書が数多く登場してくることとなります。
しかし昭和15年となると戦争の足音がだんだんと高くなり、年賀状自体が大きく減少していく中で軍事色の強い年賀状が増えてきます。
◆明治13年の年賀状
この頃の年賀状は筆で書かれたものが中心です。
挨拶の内容も「謹賀新年」などの簡単な言葉で終わるものはほとんど無く、江戸時代から続く長い文面が好まれました。
左の葉書は、たぶん官製葉書に活字で印刷したものが販売されていて、
買った人が日付と自分の住所・氏名を筆書きし、差し出したものと思われます。
まん中の年賀状の差出人、田口卯吉(1855~1905)は、明治のジャーナリスト、実業家として有名です。
◆明治25年の年賀状
辰の絵が登場するのはこの年が始まりです。
もともと絵の入った年賀状が少なかった時代ですが、略歴入りの年賀状、特に信州で作られたものには辰の絵の入ったものがあります。
帽子をとって新年の挨拶をしている薬商、前田の年賀状はこの頃にしては大変珍しい3色刷りになっています。
挨拶の言葉も珍しく「ハイ、拙者ハ……」で始まっています。
その隣の名刺を差し出している年賀状は「大庭郡徳田村」までは印刷済のものが販売されていて「大田啓三」の名前だけをあとから刷り込んだようです。
◆明治37年の年賀状
①官製葉書の年賀状
この年の辰は、勇ましいものがほとんどで、かわいい辰はまだ登場しません。
官製葉書への印刷は色数も少なく左の2枚をよく見かけます。
この頃から干支の動物を絵にしたものが販売されていたようです。
右の賀正の年賀状は、全て筆書きで大胆、受け取った人はさぞ驚いたことでしょう。
明治30年代の中頃以降、勅題(1月に宮中で開かれる歌会始めの御題)が、
年賀状を作る際のモチーフとしてよく見かけるようになります。
この年の勅題は「巌上松」。カッコいい勅題だったこともあり、岩と松を様々に描いています。
中には自分の創作の和歌で勅題を詠んだもので年賀状を作る人もありましたが、その数は多くありません。
勅題はもともと和歌の御題なのに年賀状の世界では和歌そのものよりも絵が多いのは不思議です。
②勅題「巌上松」の私製葉書
この6枚は全て銀座上方屋が発売した明治37年の年賀状です。
2枚組の葉書のように勅題と干支とを同時に表現したものもあり、勅題年賀状作りに力が入っています。
③干支の私製葉書
官製葉書の干支の絵と比べると少しにぎやかですが明治40年以降のものに比べるとまだまだです。
日本の印刷技術が発展途上で、あと数年で西洋に負けないものが作れるようになる過渡期です。
葉書に使われている用紙も西洋のものに比べてまだまだ薄く、官製葉書と同じような厚さの用紙が一般的です。
④海外からの年賀状
このころは海外へ留学する人たちも増え、海外から日本の友人への年賀状も見られるようになります。
海外の絵葉書はまだ珍しく、同じ年賀状でも描かれているものが日本のものとは全く違うので、それなりに重宝されたと思われます。
ちなみに真ん中の葉書はミュンヘンから、他の2枚はベルリンから差し出されています。ドイツへの留学生が多かった時代です。
◆大正5年の年賀状
①干支の年賀状
大正時代の年賀状には、明治からの流れを汲んだデザインと新しい時代のデザインとが混在しています。
おたより本舗で、レトロ年賀状として復活させた神田の絵葉書屋の上の3枚の葉書などは大正期を代表する傑出したデザインと言えます。
令和の日本人が見ても美しいと思える年賀状を当時の人たちも交換しあっていたのですね。
②市販の木版年賀状
江戸時代から続く錦絵や明治初期の引き札と同じく、木版印刷の技術を使いながらそれとは趣を異にする新しい木版の年賀状が作られている。
大正の後半から昭和の初めにかけて、新美術木版とも言える年賀状の時代が来ます。
また、この流れと軌を一にして趣味人による木版年賀状の交換会なども始まっていきます。
③松声堂の年賀状
東京の絵葉書屋、松声堂も独自の筆づかいで辰の年賀状を出版している。
④子どもたちの年賀状
大正に入ると一部学校では年賀状についての教育も行われるようになり、子どもたちが年賀状を出し、交換する習慣が育っていきます。
明治の時代にはまだほとんど見られなかったが、大正に入って急速に進み、子どもたちのための年賀葉書がたくさん作られるようになります。
昭和3年の年賀状
①干支の年賀状
これまでの年賀デザインの流れを汲んだデザインです。
一部に木版印刷のものも販売されていました。
②神田上方屋の年賀状
千鳥印、神田上方屋発行の絵葉書です。
辰を切手の中に閉じ込め、HAPPY NEW YEARと年号(1928)までデザインの一部にしてしまっています。
③高橋春佳デザインの年賀状
この当時を代表する年賀状デザイン作家の一人、高橋春佳の作になる年賀状がこの頃から登場してきます。
春佳独特のデフォルメが人気だったようで、京都の山口青旭堂からこの年以降多くの春佳年賀状が発売されることになります。
春佳は年賀状のほか、クリスマスの絵葉書も多く手がけています。
④子どもたちの年賀状
葉書の短辺の長さが通常のものよりも少し短いこのタイプの葉書は、
子ども用として大正時代に多く作られましたが、この昭和3年の子どもの年賀状も同じタイプで作られています。
子どもたちのお正月、子どもたちの夢が干支とともに表現されています。
➄子どもと動物の年賀状
京都の田中本店は、この頃数多くの子どもたちのための年賀状を発売しています。
ミッキーやベティーなどのキャラクターを扱ったものの他、このようなかわいい動物と子どもをモチーフにした年賀状を作っています。
絵の作家がわからないのが残念です。
⑥子どものお正月
昭和の初めには、子どもたちのための年賀状がたくさん発売されています。
このシリーズは京都の秀英堂という版元が作っていますが、秀英堂と上の動物絵葉書の田中本店とは兄弟会社です。
⑦趣味の交換会の年賀状
大正8年に京都の田中緑紅の発案で始まった、趣味人たちによる木版年賀状の交換会は大正の終わり頃には全国へ広がり、この昭和3年にも多くの年賀状が交換されています。
趣味人たちの年賀状は市販のものとは異なり、昔話に題材を取ったものや、地方の行事を描いたものなど復刻版として令和の年賀状にも登場しています。
◆明治15年の年賀状
①干支の年賀状
昭和12年の8億5千万通をピークに、郵便料金の値上げなどもあり年賀状の枚数は減り始めます。
この昭和15年のお正月には1億枚を割り込んで9,400万枚になってしまいました。
そして、次の年からは年賀特別取扱い(元旦配達)が無くなり、太平洋戦争へと突入していきます。
また、この年は日本の建国から2,600年ということで、これを祝う年賀状もたくさん作られています。
上の6番目の年賀状は市販のものではなく個人が謄写版(ガリ版)で作ったものです。
②戦時色、強まる
従来の絵葉書屋ではなく、活版で挨拶文や住所・氏名を刷り込むことを前提とした葉書がこの頃から作られるようになり、
干支や目出たいものの他に戦時色の強い絵葉書の台紙も作られていきます。
名刺や葉書を印刷業者に提供するカード会社の多くは昭和10年代の前半に誕生しています。
この戦時色の強い絵柄の年賀状は、軍の関係者だけでなく企業や商店でも多く使われています。
③趣味の交換会の年賀状
大正中期に始まった年賀状の交換会ですが、この昭和15年が最後となった会が多かったようです。
モチーフは昭和3年のものと大きくは変わりませんが、戦時色が強まる中で趣味人たちはまだ、このような交換会を楽しんでいました。