日本で私製葉書が認可されたのは明治33(1900)年のことで、年賀状として使われるようになったのは翌明治34(1901)年の年賀状からです。
この明治34年の年賀状を皮切りに、大正2年、14年、そして昭和12年の年賀状をご覧いただきましょう。
◆明治34年(1901年)
年賀用の絵葉書の始まり
絵葉書の歴史上、明治33年に画期的なことがあり、10月1日から私製の葉書が第2種郵便物(葉書)としての利用を認められました。ということは、それまでは、葉書と言えば、官製葉書のみの時代だったということです。私製葉書の認可は、年賀状のデザインに大きな影響を与えることになります。
勅題「雪中竹(せっちゅうたけ)」
干支
皇居
このころの年賀状に登場する絵のモチーフはまず一番が勅題でした。1月の初めに宮中で行われる歌会始めのテーマを一年前に発表していましたので、国民はこぞって和歌を作りました。歌作りだけでなく、年賀状の絵柄として採用されることも多く、この年の年賀状にも「雪中竹(せっちゅうたけ)」を描いた葉書をよく見かけます。
そして二番目が干支、三番目が皇居や軍隊の関係絵柄へと続いていきます。
またこの当時は、一般の国民が年賀状を出すという時代ではなく、商売人や医者、学者、軍人などが主な差出人となっています。
明治34年の年賀状として流行った絵柄を一つ紹介しましょう。岡山の洋服店や名古屋の運送店などが同じ絵柄で年賀状を作っています。
◆大正2年(1913年)
諒闇中の年賀状
前年の明治45年7月に明治天皇が崩御され、諒闇のうちに新しい年を迎えました。陛下がなくなってから、年末まではそれなりの時間がありましたので、郵便局では「諒闇中といえども年始状」というような案内を作り、例年通り元旦配達を行うことを宣伝しています。ただ、年賀状もいいけれど、年始状としてはどうかとも訴えています。
絵柄を見ますと、新元号である「大正」という文字で、遊び心を表現したものをよく見かけます。また、この年の干支である牛をあしらいながらも、諒闇のため賀詞を欠き、年始の挨拶にというものも多くあります。
全体に明治40年代の年賀に比べておとなしく、少し暗い雰意気の葉書が多くなっています。販売された年賀絵葉書の絵柄数や枚数もそれまでに比べてかなり減少したようです。
また大正に入りますと、子どもたちへの年賀状教育も進み、子どもたちが友人や先生、親類などと年賀状を交換する時代が始まります。明治の30年代は主に商売人、40年代に入って女性を含めた一般人が年賀状を出すようになり、大正に入って、子どもを含めた国民の誰もが年賀状を交換する時代となりました。
◆大正14年(1925年)
お正月行事を描く
お正月行事は明治、大正、昭和を通してよく年賀状に登場します。ここではお正月行事をモチーフにしたこの年の年賀状の中から3枚を紹介します。
1.年賀の回礼
お正月といえば私たちは年賀状を連想しますが、戦前は新年のご挨拶回り(回礼)も一般的でした。商人などが丁稚に「お年玉」を持たせ、主人と一緒に得意先を回る姿がよく見かけられたようです。丸善の明治15年の年賀状や、神坂雪佳の「礼」シリーズにも登場しています。
2.初荷
商店ではその年の最初の荷だし(倉庫などからお店へ商品を運ぶ)を初荷としてにぎやかに運んでいました。毎年1月2日のこの行事をモチーフとした年賀状もありました。初荷の年賀状はあまり多くは見かけませんが、明治42年の酉年の年賀状には威勢よく初荷を引く鶏の絵柄が見受けられます。
3.三番叟
神官の服装で鼓や扇を持ち、五穀豊穣を祈りながら町を練り歩く。この姿は年賀状によく描かれます。もともとは能舞台で演じられていたものがお正月の風物詩として家々を回るようになってきたようです。明治42年の酉年の三番叟も併せてご覧下さい。
◆昭和12年(1937年)
隠れ牛の年賀状
今年(令和2年)の11月に発行されるお年玉付き年賀葉書は20億枚弱(当初発行枚数)ですが、昭和12年のお正月には戦前で最も多い8億5千万枚の年賀状が交換されました。日本が戦争に突き進んでいく直前であり、逓信省も映画や標語で宣伝をしたり、局員が家庭を回って葉書を集めたり、主要なところに臨時の引き受け所を作ったりなど、様々な努力をしました。
ここでは、この当時の趣味人たちが木版で作った年賀状を交換するにあたって作った、牛を描かないで牛を連想させる「隠れ牛年賀状」を紹介しましょう。
1.牛若丸
京の五条の橋の上、、橋の上をひらりひらりと飛び跳ねる義経(牛若丸)を描いた葉書や、義経に切りかかる弁慶を描いた葉書があります。牛若丸→牛、一番理解しやすいパターンですね。
2.天満宮、梅鉢紋
これはちょっと難しくなります。天満宮にまつられているのは学問の神様、菅原道真。大宰府へ流された道真が詠んだ和歌が有名ですが、東風(こち)吹かばにおい起こせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ 北野天満宮の周辺に咲き誇る梅は今でも多くの人を引き付けています。また道真は、丑の年の丑の日の丑の刻に生まれたという伝説があり、牛に乗った道真が描かれることもよくあります。
3.牛祭り
鞍馬の火祭り、今宮神社のやすらい祭りと合わせて京都の三大奇祭といわれる風変わりな祭りです。毎年10月12日、太秦の広隆寺内にある神社で執り行われるお祭りです。国家安穏、五穀豊穣、疫病退散をつかさどる神様が白紙の仮面をかぶり、異様な服装で寺内を練り歩き、祭文を読むといったお祭りです。この神様は牛に乗って現れます。また、付き添っている鬼は四天王の化身とされています。この祭りは明治に入って中断されていましたが、今は復活しています。
4.愛牛先生
この顔にピーンと来る人は少ないでしょう。井伊掃部頭(いいかもんのかみ)と言われても、誰のことだかさっぱり分かりません。愛牛先生と呼ばれているこの人は、江戸時代末期、彦根藩の藩主で徳川幕府の大老を務めた井伊直弼のことです。井伊家には代々「胡麻牛」という秘伝の牛の味噌漬けが伝わっており、そのため愛牛先生と呼ばれたとか。
昭和12年のこれ等の年賀状には、今の私たちにはあまり馴染みのない、しかし当時の人ならだれもが知っている「隠れ牛」がこんなに登場しています。