1949年に初めて発売された、お年玉くじ付きの年賀はがき。毎年多くの国民を楽しませている仕組みを考案したのは、京都在住の民間人男性でした。自作のはがき見本やポスター案を携え郵政大臣に掛け合った奮闘エピソードを、関係者の秘蔵品画像と併せてご紹介します!
目次
「戦後の混乱で音信不通になった人の無事を確かめ、励まし合いたい」
考案者の林正治さんが作成した、お年玉付き年賀はがきの見本
現在も続くお年玉付き年賀はがきは、1950年のお正月用として前年12月に初めて売り出されました。その仕掛けを考え付いたのは郵政省ではなく、京都に住み大阪・心斎橋で仕立て屋を経営していた林正治さん。
当時42歳の林さんは、画商を通さず個展で絵を販売する画家としての顔も持ち、アマチュア画家クラブの京都幹事長も務めていました。広い人脈を有し、「牛乳の栓抜き」など多くの特許も取得したアイデアマンだったとか。
第二次世界大戦中に郵便局での取扱いが中止されていた年賀状は、戦後の1948(昭和23)年、8年ぶりに再開されました。しかし終戦後の混乱期、散り散りになったまま消息のつかめない人も多数。社会不安の中、郵便の利用は低調だったようです。
そんな時、林さんは思いつきました。
年賀状交換がかつてのように盛んになれば、お互いの無事を確かめ合い、励まし合える。
そこにお年玉くじを付けて寄附金を加えれば、夢もあり社会福祉にもつながるのではないか。
もらった相手も、懐かしさを感じるとともに心和むのではないだろうか。
のちに戦後の年賀状普及に大きく貢献する、そんなアイデアが生まれたのは1949(昭和24)年6月のことでした。
林さんは、すぐにお年玉くじ付き年賀状の図柄案を作って大阪の郵政局へ。そこで郵政大臣への紹介状を書いてもらい、7月には東京の郵政省を訪ねます。その際、街の印刷所と相談して作った見本はがきや宣伝ポスター、お年玉くじの景品案を携えていました。郵政大臣から紹介された郵務局長相手に、その資料で熱意を込めてプレゼンテーションしたのです。
「当る!年賀郵便」のコピーに、景品も盛り込んだポスター案
林正治さんがプレゼン用に作成した宣伝ポスター案
郵務局長は急きょ、幹部を集め会議で検討。面白い案だと評価する声も上がりましたが、出された結論は“食べるにも困る時代に送った相手にクジが当たるなんて、そんなのんびりしたことをできる状態ではないでしょう”というものだったそう。
「人心の不安定な時代だからこそ」と提案した林さんでしたが、時期尚早との判断を下されてしまいます。戦火の犠牲となり生活に困っている方の支援にと、切手代のうち1円を寄附金にあてる仕組みも伴っていたため、赤字克服が急務だった当時の郵政省としては積極的になれないという事情もあったようです。
ところが、事態は急転。林さんの友人が偶然にも当時の郵政事務次官と面識があり、紹介してもらえることに。事務次官の部屋に入るや否や、自作のポスターを壁にかけて「お年玉年賀はがきを作ったら世の中の人は喜ぶだろう」とプッシュしたところ、「やりましょう」と5分で実現が決定。
鶴の一声で、その年の12月発売に向けて郵政省は急ピッチで準備を進め、林さんも各所に自作の見本はがきを送って売上を推定するためのアンケート調査を行うなど、自費でPRに打ち込んだそうです。
初期のお年玉くじ抽選会は、演芸大会と併せて開催!
第2回「募金つきお年玉年賀はがき抽せん演芸大会」プログラム
こうして発売にこぎつけた、初年度のお年玉付き年賀はがき。お年玉くじの景品は、特等がミシン18台で、一等は純毛洋服地、二等が学童用グラブ、三等は学童用コウモリ傘でした。
上の画像は導入2年目のお正月、1951年1月15日に大阪中央公会堂で開催された、第2回のお年玉くじ抽せん会のパンフレット。林さんが大切に保管していたものです。
そこに記載された特等は総桐三重タンスと写真機で、それぞれ200本の当選番号が設定されました。特等の前後賞の方から抽選で2名に、赤い羽根共同募金の協賛グループから特別賞のお年玉5万円も贈呈。一等が自転車、二等が高級腕時計と続き、現在も景品としておなじみの郵便切手シートは九等で、当たりの本数は1千万本用意されていたことが分かります。
プログラムに記載された、1951年のお年玉くじ景品
ちなみに、この抽選会は「抽せん演芸大会」との名称からも分かる通り、演芸会とセットで行われたもの。第一部では奇術と浪花節、第三部では歌謡曲や上方演芸が披露され、その間に挟まれた第二部の抽選会で“ラッキーガアール”の女優・月丘夢路さんがバンドや舞踊隊とともに登場していました。
じつは宣伝不足もあってか、初年度の販売数は予想を下回るものだったといいます。このままでは次の年には無くなってしまうと危機感を抱いた林さんは、所有する土地を売却して売れ残りはがきを買い取ったのだとか。息子さんの著書『童夢へ』(林みのる著・幻冬舎刊)によると、家族はその年中、どこにはがきを出す場合にも年賀はがきを使うことになったそうです。
その甲斐あってか、翌年以降は売上が伸び、年始の風物詩として定着するまでに。なんと、郵便局員から“お前のせいで年末年始が忙しくて休みも取れない”と苦情まで届いたというエピソードも!
ひとりの男性の志が、戦後復興期の日本に夢をもたらした
林さんが手元に残していた、1950年と1951年のお年玉くじ付き年賀はがき
郵政審議会のメンバーに加わった林さんは、お年玉付き年賀はがきに続く新しい試みとして、「声の郵便」の開発にも打ち込んだそう。終戦後、離れ離れになった家族に子どもの声を聞かせてあげたいと考え、郵便局設置の録音機を使ってビニールのレコードに声を刻み、手廻し式の簡易プレーヤーと一緒に郵送して子ども・孫の声を楽しんでもらおうと苦心したそうです。
結局、技術面でハードルが高くこの企画はお蔵入りとなったそうですが、お年玉くじ同様、苦境に置かれた人たちに希望を届けようとした林さんの志が感じられるエピソードですよね。
林さんがプレゼン用に作成した見本はがきにはこう記されています。
「この年賀郵便で不幸な人々にもお正月の喜びを分かち又皆様にも楽しいお年玉が届きます様に」。